2009年06月16日

食材を冷蔵・冷凍することは、原因菌の増殖を

食材を冷蔵・冷凍することは、原因菌の増殖を抑えるのに非常に効果的である。一般には、10度以下で菌の増殖は鈍り、-15度程度で増殖が停止すると言われている。しかし、いずれも菌が不活化(死滅)するわけではないことに十分注意しなければいけない。(実際、細菌研究者は実験に使用する菌は一般的な冷凍庫よりも低温で冷凍保存している。すなわち、あくまでも増殖が停止しているだけであって滅菌効果はない。)一度冷凍した食材でも解凍すれば菌の増殖は再開するし、保存温度が十分に低くない場合にはゆっくりではあるが増殖は進む。家庭用の冷凍庫は冷却能力が低いことが多く、大きめの食材においては中心温度が十分に下がるまでにだいぶ時間がかかることがあり、その間に菌の増殖が進んでしまうことがある。加熱調理用の魚でも、調理の直前まで定温で保管し原因菌の増殖を防ぐ。

冷蔵庫に食材を大量に詰め込んだ場合、冷気の循環がうまく行かず、庫内といえども場所によっては十分に冷却されないということが発生する。一般には、最大容量の7割以上の食材を入れないことが、冷蔵庫の正しい使い方であるとされる。

高濃度の塩分には菌の増殖を抑える効果がある。しかし、効果が期待できるほどの濃度の場合、一般的にはそのまま食べるのには適さないので、梅漬けなどの少量を食べるもの以外では塩抜きをしてから食べることになる。当然のことながら、塩抜き後は細菌の付着と増殖に十分注意しなければいけない。また、黄色ブドウ球菌や腸炎ビブリオなどは好塩菌とも呼ばれ、比較的高濃度の塩分存在下でも増殖が可能であるため、これらの菌に対する効果は若干低い。リステリア菌では耐塩性が強く30%の塩分濃度でも生き抜くことが出来る。
星と光たち
オリンピックの驚き
海のお話
ウサギの秘密
めの付く言葉
音楽歴史
まの付く言葉
バレンタインデー
たばこ禁煙
酒に飲まれて
皮膚科学
為替
アーチェリー
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ビオトープ
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包装
ソフトボール

細菌の増殖には水が欠かせないことから、乾燥させることは食中毒の予防になる。一部の食材を除いて、食材を完全に乾燥させることはできないので、この観点が重要になるのは調理器具である。調理器具を洗浄した後はすみやかに水分を拭き取り、湿気の少ない場所に置くことが推奨される。特に木製の器具は水分が浸透して乾燥しにくいので、引き出しの中などではなく風通しの良い場所に吊るすなどの工夫が必要になる。また、ふきんは食器を拭いた後よく乾くように、やはり風通しの良い場所に吊るさなければいけない。

大量調理の現場では、まな板などを乾燥するための装置を備えていることも多い。紫外線を発する蛍光灯が付いていて、光による殺菌を同時に行なうようになっているものもある。

ヒスタミン生産菌のProteus morganiiなどにより

ヒスタミン生産菌のProteus morganiiなどにより汚染された魚(鮮度の落ちた魚)には多量のヒスチジンが存在し、このヒスチジンが脱炭酸化によりヒスタミンに変化する。鮮度の落ちた魚、チーズ、発酵食品。加熱調理用としてイカ、サバ、マグロ、ブリなどを常温で保管した場合、ヒスタミンが食物中に蓄積する[2]が、調理の加熱では毒素が分解されず摂食により発症する。ヒスタミンが原因物質となっているため、胃腸炎の他に頭痛、発疹などの症状を呈する[3]。サバでは温度5℃5日間の保存で、官能的に腐敗臭を感じない状態でも、ヒスタミン量が中毒の閾値をこえる場合もある[4]。
頭痛
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湯・長崎
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自然毒食中毒 [編集]
植物性自然毒
毒キノコ
発症率はほぼ100%、植物性中毒の90%はキノコを原因とする。症状により胃腸型、コレラ型、脳症状型、神経症状型、特殊型に分類される。
ジャガイモのポテトグリコアルカロイド(ソラニン)
その他、有毒植物の誤食
動物性自然毒
フグのテトロドトキシン
貝毒
シガテラ
マイコトキシン(カビ毒)食中毒
アフラトキシン
寄生虫
アニサキス

予防 [編集]
細菌による食中毒を予防する三大原則[5] といわれているのは、

付けない(清潔)
増やさない(迅速、冷却、乾燥)
殺す(加熱など)
である。多くの細菌では、原因細菌が増殖し食中毒を発症しうる状態となっていても味や臭いを変えないため、飲食の直前に安全を確認するのは困難であり、これらの予防策に頼らなくてはいけない。

細菌・ウイルス以外の原因による食中毒の予防は、誤食しないということにほぼ尽きる。どのようなものを食べてはいけないかをよく覚えるしかない。寄生虫による食中毒は、細菌による食中毒の予防原則の「付けない」と「殺す」を守ることで予防できる。

本節の以降の記述は、細菌による食中毒の予防に関するものである。

2009年05月30日

世良修蔵の暗

奥羽鎮撫総督府下参謀の世良修蔵は4月12日に仙台を出発して白河方面に赴き、各地で会津藩への進攻を督促していたが、閏4月19日に福島に入り旅宿金沢屋に投宿していた。ここで、同じく下参謀であった薩摩藩大山格之助に密書を書いた。

内容は、鎮撫使の兵力が不足しており奥羽鎮撫の実効が上がらないため、奥羽の実情を総督府や京都に報告して増援を願うものであったが、この密書が仙台藩士瀬上主膳や姉歯武之進らの手に渡った。姉歯らは以前から世良修蔵の動向を警戒していたが、密書の中にある「奥羽皆敵」の文面を見て激昂した彼らは、翌日金沢屋において世良修蔵を襲撃した。世良はピストルで応戦するが不発、あえなく捕らえられ、阿武隈川の河原にて斬首された。
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会津赦免の嘆願の拒絶と世良の暗殺によって、奥羽諸藩は朝廷へ直接建白を行う方針に変更することとなった。そのためには奥羽諸藩の結束を強める必要があることから、閏4月23日新たに11藩を加えて白石盟約書が調印された。その後、仙台において白石盟約書における大国強権の項の修正や同盟諸藩の相互協力関係を規定して、5月3日に25藩による奥羽列藩盟約書(仙台盟約書)が調印され、同時に会津・庄内両藩への寛典を要望した太政官建白書も作成された。

なお、奥羽列藩同盟成立の月日については諸説あるが、仙台にて白河盟約書を加筆修正し、太政官建白書の合意がなった5月3日とするのが主流のようである。

奥羽越列藩同盟

奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)は、戊辰戦争中に陸奥国(奥州)、出羽国(羽州)、越後国(越州)の諸藩が、輪王寺宮・北白川宮能久親王を盟主とし、新政府の圧力に対抗するために結成した同盟である。

元々は奥羽諸藩が会津藩、庄内藩の 「朝敵」赦免嘆願を目的として結んだ同盟(奥羽列藩同盟)であったため、両藩は盟約書には署名していない(ただし両藩は会庄同盟を結成)。赦免嘆願が拒絶された後は、新たな政権(北部政権)の確立を目的とした軍事同盟に変化した。同盟のイデオローグ・論理的指導者として、仙台藩の大槻磐渓の存在が挙げられる。
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会津藩は京都守護職、庄内藩は江戸市中取締を命ぜられ旧幕府の要職にあり、薩長と対立したために「朝敵」として新政府からの攻撃対象とされ、特に会津藩は幕府派の首魁と目されていた。

会津藩内では武装恭順派と抗戦派が対立したが、藩主松平容保は家督を養子の喜徳へ譲り謹慎を行い恭順の意志を示した。しかし、この武装恭順は認められず、慶応4年(1868年)1月17日、新政府は仙台藩・米沢藩をはじめとする東北の雄藩に会津藩追討を命じた。3月2日、奥羽鎮撫総督九条道孝が京都をたって3月23日仙台に入った。

鎮撫使は仙台藩に対し強硬に会津出兵を迫ったため3月27日に会津藩境に出兵したが、この間も仙台藩・米沢藩等は会津藩と接触を保って謝罪嘆願の内容について検討を重ねていた。4月29日、七が宿・関宿にて仙台・米沢・会津藩による談判がもたれ、会津藩が謀主の首級を出し降伏することに一旦同意したが、数日後にはそれを翻した内容の嘆願書を持参する。これを見て仙台藩は説得を諦めることとなる。

2009年04月27日

マジノ線

マジノ線(仏: Ligne Maginot、独: Maginot-Linie、英: Maginot Line)は、フランス・ドイツ国境を中心に構築されたフランスの対ドイツ要塞線である。当時のフランス陸軍大臣アンドレ・マジノ(André Maginot、1877年 - 1932年)の名を冠してマジノ線と称する。

北はロンヴィ(フランス・ベルギー・ルクセンブルク3国国境の街)から南は地中海フランス・イタリア国境にまで至る、長大な複合要塞である。なお、一般にはバーゼル(フランス・ドイツ・スイス3国国境の街)以北を「マジノ線」と呼び、対イタリア防衛を主眼とした南部の要塞線は「アルパイン線(Alpine Line)」と称する。

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フランスは第一次世界大戦において甚大な物的、人的損害を被った。敵国ドイツは大戦に敗北したが、その事をもってドイツの脅威が去ったと捉える者は少なく、ドイツに対する軍事的劣勢の解消が喫緊の課題とされた。先の大戦の経験から消耗戦を恐れ、防衛重視の戦略に傾倒したフランスは、戦闘員の不足を補う方策として、国境地帯における要塞の建設を軍事戦略の柱として位置付けた。第一次世界大戦後の一時的なフランスの少子化・人口減少も、これを推し進めた。

第一次大戦下の「塹壕戦」による膠着した戦闘の様子は小説「西部戦線異状なし」に鮮明に描かれているが、最前線に塹壕を構築し、両軍がにらみ合いを続け、双方が笛の音を合図に一進一退の突撃を繰り返す、お互いに塹壕を掘っては取り合うという戦い方は、多くの兵士の命を意味もなく無駄にするだけであった。 西部戦線は、互いの国民を大量に動員し、大量に消費しあう戦争であった。生身の人間の貧弱な防御力と兵器の絶大な攻撃力、両者のあまりのアンバランスが、約500万人の犠牲者を生み出したのである。戦後、西部戦線参戦国ならばどの国にも例外なく厭戦感が蔓延していた。

構想自体はマジノが提唱する前から存在したが、「一定の間隔ごとに要塞群を配備すべきだ」とする要塞地帯委員長ジョフル元帥と、「連続した要塞線を構築すべきだ」とする陸軍最高顧問ペタン元帥との間に確執が生じ、妥協案として対ドイツ国境においてはペタンの案が、また対ベルギー・ルクセンブルク国境においてはジョフルの案が採用された。もっとも、対ベルギー国境部分に関しては、ドイツへの宣戦布告後に本格的な建造が始まったが、結局間に合わなかった。

1936年、幾多の曲折を経てマジノ線は竣工。総工費は約160億フラン、維持費・補強費として更に140億フランが投じられた。難攻不落を期待されたが、第二次世界大戦開戦後の1940年に、ドイツ軍はマジノ線を迂回しアルデンヌ奇襲により国境を超える。アルデンヌの森は自然の要害で、重砲や戦車は通れず行軍は不可能であるとフランス軍は判定していたため、要塞構想の範囲から全く外れていた。しかしアルデンヌから国内に雪崩れ込んだドイツ軍の前に、フランスは満足な抵抗もできぬまま敗北を喫するに至った(ナチス・ドイツのフランス侵攻)。

1944年、ノルマンディー上陸作戦を経て連合軍が反攻を開始するとドイツ軍は守勢に回った。連合軍が独仏国境に迫ると、マジノ線の要塞はドイツ軍の防御拠点として利用された。しかし、一定の防御効果はあったものの、長期にわたって連合軍を阻止することは出来なかった。

2009年04月11日

古代ギリシア社会と音楽の関係

古代ギリシアの音楽は彼らの神話と堅く結びついている。アムピーオーンはヘルメースから音楽を学び、そして黄金のライアーを奏で、その音の力で岩を動かしてテーバイを建てたと伝えられている。音楽の師であり、ライアーの奏者であったオルペウスはその魔法のような音楽で野生動物たちをなだめることができたという。オルペウス教の創造神話では、レアーが真鍮(しんちゅう)の太鼓を叩いて、男を女神の神託に服従させたと言われ[4]、また次のような神話もある「(アポローンにライアーを見せながら)ヘルメースが新しく発明した亀の甲羅でできたライアーをこれまた彼が開発したピックで弾きながら、アポローンの気高さを称える魅力的な音楽を歌うと、彼はすぐさま許された」[5]。またアポローンが音楽でもってマルシュアースやパーンに打ち勝つという話もある[6]。

このような多くの言及が示すところ、どのように古代ギリシア民族が生まれ、またいかに彼らの運命が永らえ、それがどのように神によって見守れているかというギリシア人の世界観の受容にとって音楽は不可欠な部分であった。また音楽がピューティア大祭や古代オリンピック、宗教的祭儀、余暇のたのしみ、演劇の開幕時に歌われるディオニューソスを称える歌(ディテュランボス)など古代ギリシア社会にあまねく及んでいたことは疑いない[7]。しかしペロポネソス戦争の終わろうとしていた前404年、アテネが凋落していくなかで実際に演奏されるギリシアの音楽は変化していったかもしれない。

古代ギリシアの楽器たち
今日、楽器は音を生み出す方法によって大きく3つ、弦楽器、吹奏楽器、打楽器に分けることができる。[8](ここでは簡単のため電子楽器は除外する、詳細は楽器参照)。上の分類を踏まえ古代ギリシアで使われた楽器を以下に挙げる。

ライアー(リラ、リュラ): 弦をつまびいたり、弾いたりして演奏した。亀の甲羅のフレームで作られツィターのように手で持って弾いた。一般的に7本かそれ以上の弦を張り、他の楽器や奏者の朗唱に合わせて弾いた。
キタラー:これも弦をつまびいて音を出す。ライアーよりは複雑なつくりである。箱状の胴体と上部に付いている横棒との間に弦が張られている。縦にして、ピックでもって弾いた。横棒についたV字型の木のつまみを調整することで音を変えることができた。
アウロス: アウロスはダブル・リードでありオーボエに似た音を出していたと考えられる。しばしば壺などに2本をひとりの人物が演奏している描写が残っているが、1本でも用いられた。
パンパイプ:指で押さえて吹く笛である。段階的に長さの異なる複数の笛から成り、切ることで音を調節した。音を出すときは笛の上から息を吹きつけた。
ヒュドラウリス(Hydraulis):鍵盤楽器であり、パイプオルガンの先駆けともみなせる。名前が示すように、一定の気圧を保つために水が使用される。英語ではwater organと呼ばれている。ウィトルウィウス[9]とアレクサンドリアのヘロン[10]がこの楽器について書いている。1885年にカルタゴの遺跡から保存状態のいい陶器製の模型が発見された。まず水を圧縮するために空気が送り込まれると筐体の中で水位が上がり、内部の空気を圧搾することで安定した空気を上部のパイプに供給することができた。[11]また、ハンガリー、プダペスト近郊のローマ遺跡アクインクムからは実物が出土している。これは明らかにパイプオルガンの原型だが、送風機構は出土していないので、厳密にはヒュドラウリスとはいえない)。
以上の楽器すべてが古代ローマに伝わっている。

その他の古代ギリシアの音楽家たち [編集]
以下は上に挙げられていないが現在まで名が伝わっているギリシアの音楽家たちである。

アナクレオン 紀元前570年 - 紀元前488年
サッポー 紀元前7世紀末-紀元前6世紀初
シモーニデース 紀元前556年頃 - 紀元前468年
バッキュリデース 紀元前520年頃 - 450年
ヒッパソス 紀元前500 - ?
ピンダロス 紀元前520年頃 - 紀元前440年頃

天の浮橋 ワインレッド ルバーブ 優しい響き マナー スピネル うむら タルブロク ドライブ ドマリエ スペツナズ シルク ダンネージ タイフーン かきょう ストリ 薪の音 次世代 スコア ロッジ まいこ ギャンブ リプリン リマーク しまやま フィト マリッジ ラニン オダマキ ジンバク ステップ フリー ストック ムッシュー かまど シンボリ トルクア ブルネイ メクチュ ライト ノッブ ソンブ 道のつづき ミノス マキシム データ ラチア ビンゴ シャド マキザサ

2009年03月27日

精霊

精霊(しょうりょう、しょうらい、しょうろう、せいれい)は、人類が古代から普遍的に持つ観念としての、命や神や霊や魂などを表すときの言葉の一つ。文化人類学の自然崇拝・精霊崇拝(アニミズム)における「森羅万象に命が宿る」または、その根源をなす「気」などを、ある社会において「幾つかの具現化された形の中の一つ」を表す言葉。

日本において、(しょうりょう、しょうらい、しょうろう)と読んだときは、古神道における先祖崇拝としての故人の霊や魂をさす。この場合はあくまで、死者の世界(常世・常夜や天国・地獄や黄泉の国や三途の河の向こう)に旅立った実体のない霊魂をさし、現世(うつしよ)に残こり、実体化したものは幽霊・亡霊や人魂(ひとだま)という。
ボライズ ピーマン ストー トラ!トラ! ルワン クッツ フーリガン チレース ディーピー マルガリ カツレツ ストアブ オルゴ れいほく ステップ びゃくぐん 横野柿 ストア テーマ サルバド アクティブ ピンぼけ マドラー スコップ スメグマ ドティー スローフ レンチ フェン スロー ミリオン ブカレスト ロボトミ セラム 平和の種 ベルト ヤプー もらーど デンマーク サーンチー ピアノ はちろ パラソル スキップ ランダム モンブ ぶなしめじ セニョーラ ボンボン イアル

せいれい [編集]
日本において日本以外の神など、世界各地の神話・伝承に登場する「?の精」(例えば「泉の精」や「ランプの精」など)といった場合の「魂(spirit)」とは別の「スピリット(spirit)」の訳語。なお、キリスト教の三位一体の考え方における神の三つの位格のひとつで、聖母マリアを身ごもらせた「聖なる精霊(the Holy Spirit)」については特に聖霊と訳される。

中華文明圏の道教の五行の五大元素、インドのヒンドゥー教や西洋の錬金術など神秘主義においての四大元素、万物(森羅万象)のもととなる「気」や「元素」のことや、それを表す「エレメンタル(elemental)」の訳語としてつかわれる。

四精霊(エレメンタル) [編集]

16世紀の錬金術師パラケルススにより、地・水・火・風の四大元素が実体化したものとして、精霊が以下のように関連づけられた。

水の精:ウンディーネ
火の精:サラマンダー
風の精:シルフ
地の精:ノーム
これらのエレメンタルは、ファンタジー作品においては擬人化した姿で描かれることも多い。

2009年03月11日

大学都市 (メキシコ国立自治大学)

シウダー・ウニベルシタリア(Ciudad Universitaria, 大学都市)は、メキシコシティ南部のコヨアカン地区にあるメキシコ国立自治大学(UNAM)のメインキャンパスである。建築家マリオ・パニ(Mario Pani)とエンリケ・デル・モラル(Enrique del Moral)によって設計された。オリンピック・スタジアムを含み、計40の学部・研究所、文化センター、生態系の保全区域、中央図書館、博物館などが設置されている。この大学都市は、当時メキシコシティに点在していた建築物群をまとめて移転するために、かつての固まった溶岩層の上に建造された。工事は1950年代に始まり、1954年に完成した。

UNAM は、メキシコシティの他の地区(主として大学院や教養目的)や、他の州にも建物を持っているが、単に"C.U."として知られるこの大学都市が、大学の一番のシンボルになっている。
王様 ケルピ つまごい まさめ ドンタ ラドン スラグ リリース れんがいろ イグアナ ジーユー プロデュポ 寛仁 日野菜 かやべ 睡蓮 リサーチ 鳥のくちばし ながぬま ロット シンビ ロゼ オフデイ トラン ナノチュ シエスタ サンリ ハイル ドルメン シンデレラ せーじ フットギア アムス チャル 雪うさぎ ファム あんず ディレッ ランプ マチュピ とうゆう 竜馬の如く イカオ 春夏秋冬 モンスーン ムイズ しゅくや ユニテリ リードオ パーセク

シウダー・ウニベルシタリアは開かれた場所であることが企図されている。かつては火山岩盤あり、鬱蒼と茂った植生ありといった状況だったので、まっすぐ伸びた道などはほとんどない。道路は同心円状にめぐらされ、そこに各建物が配置されている。建物には徒歩5 - 10分程度の間隔で配置されているものもある。かつて転がっていた火山岩はどかされ、建物の部屋、小道、壁面などの建材に転用された。建物それ自体は、コンクリートと煉瓦を主体とする共通の建材が用いられている。建物の多くは数階建てで、窓が大きくとられ、内外に庭園が配置されている。

建築様式は異なっていても、庭園の存在と火山岩の使用はほぼすべての建物に共通であるが、注目すべき例外がある。それは牧師塔(the Rectorate Tower)と中央図書館である。これらの長身で四角い建物は、他に比べていささか孤立しており、壁画で飾られているという特色がある。手がけたのはともにメキシコの著名な壁画家で、牧師塔の方はダビド・アルファロ・シケイロス(David Alfaro Siqueiros)が、中央図書館のほうはフアン・オゴルマン(Juan O'Gorman)が、それぞれ担当した。

中央図書館のほうは、壁画としては世界最大で、全面にアステカ人とスペイン人をモチーフにした絵やUNAMの学章などが描かれている。このことが、中央図書館を大学都市内で最も図像的な建築物にしている。

ウニベルスム(UNIVERSUM)- 科学博物館で、一般向けの科学に関する体験型展示などが行われている。
科学と芸術のための大学博物館(MUCA, Museo Universitario de Ciencias y Artes)- メキシコ人の芸術家から寄せられた現代美術の展示や、大学が保有する美術品の展示が行われている。
エスタディオ・オリンピコ・ウニベルシタリオ(オリンピック・スタジアム)は、1952年に建設されたもので、1968年のメキシコオリンピックではメイン会場として使われた。また、1986年にメキシコで開催された第13回サッカー・ワールドカップでも使用された。現在は、メキシコの都市大学サッカーリーグの試合に使われており、UNAMのクラブ「プーマ」のホームグラウンドにもなっている。

競技場には、学生や少年サッカーの練習場もあり、スタジアムの近くには、主に学生向けのマーシャル・アーツやボクシングなどの練習ジムも設置されている。

サラ・ネサワコヨトル(Sala Nezahualcoyotl)- オーケストラやダンスの上演に使われる。
フアン・ルイス・デ・アラルソン劇場(Teatro Juan Ruiz de Alarcon)- 古典劇も現代劇も上演される大劇場。
大学演劇センター(Centro Universitario de Teatro, CUT)- シアター・スクール付属の100席の小劇場。
文化ゾーンには、映画館がいくつかあり、学生にも手ごろな値段で、アジア、ヨーロッパなどの国際的な映画が上映されている。また、ほぼすべての学部にフィルム・クラブがあり、一般向けに自主制作映画などを上映している。
ラジオUNAM(Radio UNAM)- メキシコシティ内向けのラジオ局。音楽番組や情報番組を配信している。

2009年02月23日

満州語(まんしゅうご)

満州語(まんしゅうご)は満州族が話す言語。
クシェット ショベル フットプ スターリン ツリー 一期 ワッフル シリコー フォル ミッド オパール パスカル ニシダ バシネット ネトル いなば ハント トルネード ローダー スパラキ おどろき プログム リベット グアヤ ケープ うわばみ 水鏡 いろは坂 ストア サイヒト マチア トレッカー タマシダ ぼちゃ 温順山椒 グロナス レディ オーバート SEOタイ ビュー ディス オフセン かゆばら ダビンチ ディマー カイアポ かもい ギタリ るすつ トケドー

満州語の話者は満州族の間でも現在では極めて少なく、消滅の危機に瀕する言語の一つである[1]。

満州語は、言語学的にはツングース諸語に分類される膠着語である。アルタイ語族があるとすればツングース語派に分類されることになる。満州語の表記は、モンゴル文字を改良して作られた満州文字を使う。

なお、満州国では域内で使用される漢語(いわゆる中国語)を「満洲語」と呼称し、本項で述べる満州語を「固有満洲語」として区別した。

以下に満洲文語の音韻を概観する(ローマ字はメレンドルフ方式による満洲文字の翻字である)。必要に応じて国際音声記号による補足説明を加える。

母音
単母音には以下の6つがある。

a,e,i,o,u,ū

eは[e]ではなく[?]のような音、uは円唇[u]である。ūは通常g,k,hの直後にのみ現れ、[?]のような音であったと見られる。二重母音はai,ei,oi,ui,io,ooが認められる(ooはoの長母音とも解釈される)。男性(陽性)母音・女性(陰性)母音・中性母音による母音調和が存在するが厳格ではない。

男性母音 a,o,ū
女性母音 e
中性母音 i,u

子音
唇音 歯茎音 硬口蓋音 軟口蓋音
閉鎖音・破擦音 p,b t,d c,j k,g
鼻音 m n ng
摩擦音 f s š h
震え音 r
側面音 l
接近音(半母音) w y

p―bなど無声・有声の対立は、有気・無気(/p?/―/p/など)の対立だったという見方もある。
sは[s]であるがiの直前でのみ[?]であった。
c,jは硬口蓋破擦音[?,?]であった。
šは[?]であるがiの直前でのみ[?]であった。šiは固有の満洲語にはない。
k,g,hは男性母音a,o,ūの直前では軟口蓋音[k,?,x]、女性母音・中性母音e,u,iの直前では口蓋垂音[q,?,χ]であったと見られる。
ngはnとgの2音ではなく軟口蓋鼻音[ŋ]を表す。

音素配列上の特徴
音素の配列において以下のような特徴がある。

wの直後にはa,e以外の母音が来ない。
借用語を除いてt,dの直後にはiが来ない。
yの直後には母音iが来ない。
ūは通常k,g,hの直後にのみ来うる。
rは語頭に立たない。
ngは音節頭に立たない。また語中のngはk,gの直前にのみ現れる。
音節末に立ちうる子音はb,m,t,n,r,l,s,k,ngである。
語末に来うる子音はnのみである(ただし外来語はこの限りでない)。
通常、音節頭あるいは音節末に子音が連続しない(ただし、音節末子音と音節頭子音が連続することはありうる)。

文法

紫禁城・乾清門の扁額。左が中国語(ピンイン: qian qing men)、右が満洲語(ローマ字転写:kiyan cing men)満州語は類型論的に膠着語に分類され、語順は日本語と同じく「主語―補語―述語(SOV)」の順である。修飾語は被修飾語の前に置かれる。

si manju bithe tacimbi. (汝は満洲の書を学ぶ)
主語 修飾語 被修飾語
補 語 述語

また、関係代名詞がなく代わりに動詞が連体形を取って名詞を修飾するのも日本語と同様である。

soktoho niyalma (酔った人)
連体形 名詞

さらに、日本語同様、動詞を活用する(動詞語幹に接尾辞をつける)ことで、日本語で言う過去形や連用形と同じ働きを、動詞に持たせることができる。

例えば、動詞 genembi(行く) の語幹 gene に 過去を表わす hV をつけ gene-he とすると"行った"となる。 大抵の場合、"hV"で過去を表わせるが、例外もある。
tucimbi(出る),jalambi(止める),jombi(思い出す),sambi(知る),sembi(言う),ukambi(逃げる),sumbi(脱ぐ)等には-kVを付け、其々tucike,jalaka,jongko,sangka,sengke,ukaka,sungkeとするのが一般的である。

tere sargan hoton de gene-he (その娘は町へ行った)
tere sargan boo ci tuci-ke (その娘は家から出た)
tere sargan boo ci tuci-me, hoton de gene+he (その娘は家から出て,町へ行った)
tere sargan boo ci tuci-fi, hoton de gene+he(その娘は家から出た後,町へ行った)
tere sargan boo ci tuci-cibe, hoton de gene+he (あの娘は家から出たが,町へ行った)

体言の曲用は語幹の後ろに膠着的な語尾(助詞)が付くことによって表される。体言の格は主格(語尾なし)・属格(-i/-ni)・対格(-be)・与位格(-de)・具格(-i/-ni)・奪格(-ci)・沿格(-deri)がある。終格(-tala/-tele/-tolo)を認める場合もある。
人称代名詞には1人称単数 bi、1人称複数 be および muse、2人称単数 si、2人称複数 suwe、3人称単数 i、3人称複数 ce がある。1人称複数 be は聞き手を除外した形、muse は聞き手を含めた形である。
指示詞は近称と遠称の2系列からなる。ere(これ)― tere(それ)、uba(ここ)― tuba(そこ)、enteke(こんな)― tenteke(そんな)、uttu(このように)― tuttu(そのように)などがある。
疑問詞には we(誰)、ya(どれ、誰)、ai(何)、aiba(どこ)、antaka(どんな)、ainu(なぜ)、atanggi(いつ)、adarame(どのように)などがある。
満州語の形容詞は語形変化をしない不変化詞である。
動詞は終止形・連体形・副動詞形(接続形)がある。連体形は文末に来て終止形として用いられることが少なくない。
後置詞は、ある種の単語の後ろに来てさまざまな文法的意味を付け加える付属語である。大きく分けて、体言の格形の後ろに来て格関係を表すもの、用言の後ろに来て副動詞的に用いられるもの、文末についてさまざまなニュアンスを表すもの(日本語の終助詞に似る)がある。

語彙
語彙目録は「満州語の語彙集」を参照。

満洲語研究機関・研究家
黒龍江省満語研究所
中央民族大学中国少数民族語言文学学院少数民族語言文学系
愛新覚羅ウルヒチュン(日本名:吉本智慧子):満州語、女真語、女真文字、契丹語、契丹文字を研究。
日本大学文理学部史学科加藤研究室

^ 現在の中国で認定されている「満族」のうち、満州語を母語として話す(または話していた)ことが確認されているのは黒龍江省の農村部に分布するごく少数である。それ以外、特に都市部に居住する「満族」は中国語を母語としている。清朝は満州族に対し満州語の学習をたびたび奨励したが、書記言語は公用文として使用されたものの、音声言語の使用は次第にすたれた。最後の皇帝であった愛新覚羅溥儀は幼少時に伊克坦(イクタ)という教師から満州語を学んだがついに習得できなかった。

2009年02月07日

後村上天皇

後村上天皇(ごむらかみてんのう 嘉暦3年(1328年) - 正平23年 / 応安元年3月11日(1368年3月29日))は、南北朝時代の第97代、南朝第2代天皇(在位:延元4年 / 暦応2年8月15日(1339年9月18日) - 正平23年 / 応安元年3月11日)。名を義良(のりよし / のりなが)という。のちに憲良と改名した。[1]名前の読みが二種類あることについては、後醍醐天皇の皇子の読みを参照。
レザー ホオズキ テレサイ スアレ 元亀 スリーブ アンス ファイフ テストパ 宇宙戦艦 ダーク アレン インロ デグー 赤いランプ 索ゴブレット トフル 男泣き ブロー キウイ ナーヤ ヒオウギ りょう カーブ ラワン ステッチ クイン きょっこう ブラッ きくもん まきえ 影の館 シリマリ クアッド 戦国合戦 ジャン サムネ ワーク シャイツ サイバ セルドレ ビュッフ 木漏れ日 シアター タムウ アココ オーニ ケンブ トークシ アネク

明治44年(1911年)に南朝が正統とされたため、歴代天皇として認定されるようになった。

奈良の吉野、大阪の住吉などを行宮とした。

後醍醐天皇の皇子。母は藤原(阿野)公廉の女・廉子。

皇后:藤原氏(名前不明)
女御:藤原勝子(嘉喜門院) - 近衛経忠(?)女
第一皇子:寛成親王(長慶天皇)(1343-1394)
第二皇子:熙成親王(後亀山天皇)(1347?-1424)
第二皇女:良子内親王?
中宮:源(北畠)顕子 - 北畠親房女
第一皇女:憲子内親王(新宣陽門院)(1343?-1391)
母不詳[2]
第三皇子:惟成親王(?-1423) - 後亀山天皇皇太弟、護聖院宮家?
第四皇子:泰成親王(1360?-?)
第五皇子:師成親王(1361-?)
第六皇子:説成親王(?-?) - 護聖院宮家?
第七皇子:良成親王(?-1395?)
以上は近世に作られた南朝系図に拠るが、これらをそのまま史実として受容することには慎重になる必要があろう。事実、同時代史料に確認できる皇子女は、寛成・熙成・新宣陽門院・護聖院宮(後亀山天皇皇太弟[3]、三宮か。惟成や説成に比定する説がある)・福御所(上野宮。説成や『新葉和歌集』に見える懐邦親王に比定する説がある。あるいは両者同一人か)の5人のみに限られる。惟成・泰成・師成については、『新葉集』作者としてその名が見えるものの、後村上の皇子とする史料的裏付けがない。

1333年(元弘3年 / 正慶2年)に鎌倉幕府が滅亡し、父の後醍醐天皇が建武の新政を始めると、幼い親王は北条氏の残党の討伐と東国武士の帰属を目的に陸奥守北畠顕家・北畠親房に奉じられて奥州多賀城へと向かう。1335年(建武2年)に足利尊氏が新政から離反すると、北畠親子と共に尊氏討伐のために京都へ引き返す。比叡山で元服を行い、1336年(建武3年)に尊氏が京都で敗れて九州落ちすると再び奥州へ戻るが、1337年(延元2年 / 建武4年)多賀城が襲撃されたため西国に戻る。足利尊氏は京都を奪還し、後醍醐らは吉野へ逃れて南朝を成立させる。後醍醐天皇が全国の南朝勢力を結集するため各地に自分の皇子を派遣する中、義良も1338年(延元3年 / 建武5年)に宗良親王や北畠親房らとともに伊勢国大湊から奥州へ向かうが、途中で暴風に遭い一行は離散し、義良は吉野に戻る。1339年(延元4年 / 暦応2年)皇太子になり、同年の8月15日に後醍醐天皇から死の直前に譲位され即位する。

1348年(正平3年 / 貞和4年)に足利方の高師直に吉野を襲撃されると、大和賀名生(奈良県五條市)へ移る。観応の擾乱が起こると、直義、尊氏が交互に申し出た降伏を受け入れる。尊氏が南朝に降伏し正平一統が成立すると、北朝方の三種の神器(後醍醐は偽器と主張していた)を接収し、尊氏に対して直義追討の綸旨を与える。尊氏が直義の養子足利直冬討伐のために西国向かうと、その隙をついて1351年(正平6年 / 観応2年)に足利義詮を追い京都を奪回するが、尊氏の帰京と共に京を追われる。

1352年(正平7年 / 観応3年)閏2月19日、山城国の男山(京都府八幡市)に入り、七条大宮の戦いで楠木正儀が足利義詮を破り再び京都を奪回する。義詮は光厳・光明・崇光3上皇と皇太子直仁親王を置いて逃げ、後に南朝は3上皇と直仁親王を男山に連行する。3月に足利軍の反撃に遭い京を放棄し、男山に立てこもるが、義詮の軍により敗走、河内国東条に逃れ、6月賀名生へ帰還。1355年(正平10年 / 文和4年)、再び南朝に帰順した足利直冬を立てて京の奪回を目指すが、尊氏・義詮の軍に敗れて頓挫する。

1361年(正平16年 / 康安元年)12月8日には、足利幕府の政争に敗れて失脚した幕府執事細川清氏の帰服を受け、清氏や楠木正儀らとともに京へ攻め込み、一時的に京を奪回するが、すぐに義詮軍の反撃に遭い、12月26日には撤退している。その後も京都奪回を目指すが、南朝の力は既に弱体化しており、足利義満将軍就任後の1368年(正平23年 / 応安元年)3月11日に御座所にしていた住吉大社宮司の津守氏の住之江殿(大阪市住吉区)にて崩御(死去)。

音楽や学問に長けていたと言われている。